夏の白昼夢

お題「思い出の味」

 

 

思い出の味、と聞くと

あなたは何を思い浮かべるのでしょう

 

私はおそらく

雨上がりに飲んだ

あのレモネード

 

一択なのです。

 

 

高校生活も半ば、17歳の私も変わらず私であったに違いありません。

忘れることのないあの日は、テストのために帰宅がとても早かったのでした。勉強が学生の本分とは言いますが、明るくてしんとした平日は非日常的であり、まっすぐ帰るなど到底できませんでした。全てが水を打ったかのような静けさ、まるで夏まで気を使って息を潜めているようで、世界で息をしているのは私とついてきた猫だけのような錯覚を覚えました。

どこからか風鈴の音がしていました。チリン、チリンという涼しげなその音は、古いこの街では耳慣れた音でしたが、妙に澄んでいて透明で、そう、海の底みたいな、

と思った時でした。

それまで青だった世界が一転して赤になりました。

不思議に思って空を見上げると、一匹の巨大な金魚が悠々とヒレを風になびかせ、その波紋が澄んでいて透明な風鈴の音を作り出したのだと、理解した時世界は海底でした。ついてきていたはずの猫が前を歩く、いえ、海底だから泳ぐと言った方が正しいのでしょうか。兎にも角にも前をゆく猫は振り返り、まっすぐとわたしを見据え「ようこそ、夏へ」と言ったのでした。

雨。雨が降っていました。海底に降りそそぐ暖かい雨。巨大な金魚はわたしには目もくれず自由自在に泳ぎ、その飛沫が雨となってわたしの元へ降っていたのでした。猫もまた、先程喋ったことなど忘れたかのように見向きもしません。ほうけているわたしをよそに毛づくろいをしています。赤くて青い、不思議な海底でした。

よくよく目を凝らして見ますと、全くの知らない海底というわけではなく街はそのまま存在しています。古い見慣れた、いつもの街に赤と青のフィルターがかけられ雨が降り、そして海底というわけなのです。 

猫がまた、こちらをちらりと見ました。「こうして夏が始まるんだよ」一言そういうとにゃーおとひと鳴き、一転して先程までの赤と青のフィルターも雨も消え、金魚ははるか遠く小さくなり、そしてわたしはいつもの街へ戻ってきました。

海底は今や跡形もなく、しかしわたしの濡れた髪や制服だけが白昼夢ではなかったということを証明していました。猫はまた、見向きもせず歩き出しました。しんとした平日の街には確かに夏が来ていて、急に日差しでさえも強くなったかのように思えました。

あれが夏だったのか。

と、思うことにしました。学生の本分は勉強です。今はテスト期間、先程まで楽しんでいた非日常も、ここにきて罪悪感を覚えてしまったのです。はっと気がつき帰ろうとしたものの家路の途中、見たことのない路地に猫が進んでいるではありませんか。わたしは好奇心を抑えることができませんでした。通ったことのない路地はいつでも魅力的なので仕方ありません。

にゃー

とまた猫が鳴きました。そこは駄菓子屋でした。カラカラの夏の街で、その駄菓子屋だけは雨に濡れたあとがありました。駄菓子屋の存在もまた、先程の夢の存在を肯定している。わたしは夢が続いていたことに半ば嬉しく思いつつ、引き戸に手を伸ばしました。

金魚です。大きさは違うものの先程の巨大金魚と同じ、鮮やかな赤い金魚がバスケットボールくらいの金魚鉢の中を悠々と泳いでいるではありませんか。猫は金魚を横目に、店内の干物を咥えてこちらを見ました。「好きなものをとるといい」と言いたげな、いえ、わたしに猫の言葉の心得はないのですが、どうやらそういうことのようでした。

わたしはぐるりと店内を見渡して見ました。普通の駄菓子屋のようでした。ずらりと並ぶお菓子、おもちゃ、ジュース、ただ一つ違うのは店主が金魚鉢の住人ということだけでした。一際目を引いたそれにわたしは手を伸ばしました。そう、それこそがしゅわしゅわと炭酸が涼やかに音を立てる、あのレモネードだったのです。

駄菓子屋を出て路地をすり抜けると猫は消えてしまいました。振り向くと路地裏がどこにあったのかもわからなくなりました。白昼夢の痕跡は、乾きかけた髪と制服、そして右手のレモネードのみでした。

思い出したように携帯を取り出しました。どうしてあの美しい海底を、金魚を、路地裏を、猫をカメラに写そうとしなかったのでしょう。悔やみつつ右手のレモネードにピントを合わせシャッターを切りました。学生の本分は勉強です。今度こそ帰って勉強し、明日のテストに備えなければ。携帯をポケットにしまい、水滴を落としながら歩いて帰りました。

 

水滴はあの雨と同じ、優しくて暖かく

そしてレモネードは夏の味がしたのでした。